結婚して三年目から、俺たちは「妊活」を始めていた。
だが、コウノトリは気まぐれだった。
「ごめんね」と謝る彼女の背中はあまりに小さく、俺は胸が張り裂けそうだった。
だから俺は、結婚四年目に無理をしてあの家を買ったのだ。
環境が変われば、心も体も変わるかもしれない。
いつか子供ができたとき、泣き声を気にせず、庭で泥だらけになって遊べる「未来の居場所」を用意しておきたかった。
それと同時に、俺は会社を辞めて独立した。
サラリーマンの拘束時間では、理想の父親にはなれない。
華奢な佳純一人に育児の負担をかけたくなかった。俺も一緒に育て、その成長を一番近くで見守れるように。
そんな夢を描いて始めた事業だった。
だが、現実は無慈悲だった。
事業は一年も持たずに資金ショートを起こした。
俺は夢を畳み、這うような思いで再就職先を見つけたが、給与はサラリーマン時代の半分以下。
佳純もパートに出てくれているが、焼け石に水だ。
事業資金の返済。住宅ローンの支払い。
数字の計算などするまでもない。俺たちは毎月、確実に沈んでいっている。
(……来月、もう払えないな)
フェンスを掴む手に力が入る。
このままでは、あの家を手放すことになる。
佳純が「子供部屋にいいわね」と笑って選んだあの部屋も、二人で植えた庭の木も、全て失う。
あの無垢な妻を、路頭に迷わせることになる。
それだけは、死んでも嫌だった。
だが、どうすればいい? もう打つ手がない。
「……熱心だな。現場監督志望か?」

不意に、横から声をかけられた。
ハッとして振り返ると、作業着姿の大柄な男が立っていた。
日に焼けた黒い肌。丸太のような腕には、浮き出た血管が蛇のように走っている。
「あ、いえ……ただ、見ていただけです」
「そうか。最近、この時間になるとここに立ってるからよ。同業者かと思ったぜ」
男は人懐っこい笑みを浮かべながら、俺の顔を覗き込んだ。
観察されていたのか。
恥ずかしさで立ち去ろうとした俺を、男の言葉が引き止めた。
「……だが、えらく辛気臭い顔をしてるな」
男の目が、細められた。
それは単なる好奇心ではない。弱った獲物を見定めた爬虫類のような、じっとりとした粘着質な視線だった。
俺のよれたスーツ、手入れされていない髪、そして漂う絶望的な閉塞感。
それらを一瞬で値踏みしたように感じた。
「何か悩みでもあるんか? 例えば……金とか」
心臓が跳ねた。
図星を突かれた動揺で、俺は言葉を詰まらせた。
権田(ごんだ)は、ポケットから煙草を取り出し、ゆっくりと火をつけた。
紫煙の向こうで、口元が歪に吊り上がる。
「俺でよければ、話くらい聞いてやるがね」
その言葉は、溺れる俺の目の前に垂らされた一本のロープだった。
それが救いの糸なのか、首を吊るための縄なのか。
判断能力を失っていた俺は、ただ縋り付くようにその男を見つめ返していた。
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