契約書の最後のページに、妻の名前が書き込まれていく。
安っぽい黒ボールペンの先が紙を引っかく音が、静まり返ったリビングでやけに大きく響いた。
カリ、カリ、というその乾いた音は、俺たちの平穏な生活を少しずつ、しかし確実に削り取っていくカウントダウンのように鼓膜を打ち続ける。
テーブルの中央には、俺が人生を賭けて手に入れたマイホームの間取り図が広げられている。
だが今のそれは、俺の知っている我が家の図面ではなかった。
妻が毎日立つキッチン。
夫婦でくつろぐはずだったリビング。
そして、浴室。
一階のほぼすべての空間が、鮮血のような赤い太枠で無遠慮に囲い込まれ、その中央に太いマジックでこう記されているのだ。
『作業員共用スペース』

唯一、朱が入っていないのは二階の寝室だけ。そこへの立ち入り禁止という条件だけが、俺のちっぽけなプライドであり、最後の心の拠り所だった。
「——では、奥さん。こちらの『寮母業務規定』にも署名を願います」
目の前に座る男——建設会社社長の権田(ごんだ)が、低い声で書類を促した。
短く刈り込んだ茶髪に、日に焼けた浅黒い肌。 着慣れた作業着から覗く腕は丸太のように太く、指先には現場仕事で染みついた油の匂いが微かに残っている。
言葉こそ丁寧だが、そのドスの利いた声色と、獲物をねめつけるような眼光には、隠しきれない荒っぽい気質が滲んでいた。
「……はい」
佳純(かすみ)の強張った声が落ちた。
ペン先が一瞬、止まる。
彼女は一度だけ俺の方を見た。すがるような、確認するような、潤んだ瞳。
だが、権田が無言のまま、太い指先でコツ、コツ、とテーブルを叩くリズムに急かされ、俺は膝の上で握りしめた拳に爪を食い込ませて俯くことしかできなかった。
莫大な借金。明日の破産。
それらを回避するためには、この男の前にひれ伏してでも契約するしかなかったのだ。
契約書に並ぶ文言が、脳裏で明滅する。
《作業員の生活サポート》
《健康管理およびメンタルケア》
具体的な業務内容は書かれていない。
だが、男所帯の荒くれ者たちと、一つ屋根の下で暮らすのだ。
閉ざされた家の中で、「家事」という言葉がどこまで拡大解釈されるのか。
権田のふてぶてしい態度を見れば、それが単なる掃除洗濯で終わらないことなど、俺の本能が警鐘を鳴らしていた。
(俺は、妻を売ったのか?)
喉元まで出かかった嘔吐感のような問いを、必死に飲み込む。
守るべき家を守るために、家庭そのものを差し出す矛盾。
俺の沈黙を肯定と受け取ったのか、佳純が再びペンを動かし始めた。

さらさらと、流れるような文字で名前が記されていく。
その筆跡が、俺と佳純の間に引かれた決定的な境界線に見えた。
書き終えられると同時、権田は満足げに口の端を歪め、分厚い手で書類を回収した。
俺たちの城に、招かれざる「雄(オス)」たちが入り込んでくる。 その扉の鍵を、俺自身が開け放ってしまったのだ。
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