砂上の城、あるいは愛の檻

その家は、俺たち夫婦にとって「希望の砦」になるはずだった。
県内でも治安が良いとされる郊外の住宅地。南向きの角地。
真っ白な外壁は陽光を弾き、広めに取った庭には、未来のために柔らかな芝生を敷き詰めた。
まだ主のいない子供部屋には、南欧風の明るいクロスを選んだ。
一年前、俺はこの家を契約したときの震えるような高揚感を、今でも鮮明に覚えている。
だが今、その白さは、俺の薄汚れた心を照らし出す尋問室のライトのように感じられた。
「——おかえりなさい。早かったのね」
リビングのドアを開けると、キッチンから柔らかい声が飛んできた。
妻の佳純(かすみ)だ。
彼女はエプロンをつけ、濡れた手をタオルで拭きながらこちらへ歩いてくる。
ふわり、と出汁の甘い香りがした。
俺が地獄の淵を歩いている間も、この家の中だけは平穏な時間が流れている。それが今の俺には、ひどく残酷なことに思えた。
「ああ……今日は直帰だったから」
俺は視線を逸らし、鞄をソファに置いた。
佳純は俺の顔を覗き込み、少し心配そうに眉を寄せた。
「顔色が悪いよ? 新しい職場、やっぱり大変?」
「……まあな。覚えることも多いし」
俺は曖昧に笑って誤魔化した。
佳純とは大学時代からの付き合いで、結婚して五年になる。
派手な美人というわけではない。さらりと流れる黒髪は肩甲骨の下あたりまであり、普段は下ろしていることが多いが、今は家事のために後ろで一つに束ねられていた。

その小さなポニーテールが揺れるたび、白く華奢なうなじが無防備に晒される。
透き通るような肌。折れそうなほど細い手首。
結婚して五年。年齢的にも大人の女性になっているはずだが、佳純にはどこか、俗世の汚れを知らないような清潔な空気が漂っている。
俺しか知らない、真っ白な妻。
その細い体に、生活の苦労など背負わせてはいけないはずだった。
「ねえ、あなた。相談があるんだけど」
着替えようとする俺の背中に、佳純が少し言いづらそうに声をかけた。
ドキリ、と心臓が跳ねる。督促状を見られたか?
「……なんだ?」
「あのね、来月の私の誕生日なんだけど……外食、やめにしない?」
「え?」
「ほら、あなたのお給料日前だし。家で私が美味しいもの作るから。その方がゆっくりできるし、ね?」
佳純は精一杯の笑顔を作っていた。
俺は気づいてしまった。彼女のエプロンが、もう何年も買い替えていない古いものであることに。新しい服も、彼女はもう長く買っていない。
俺は何も言っていないのに、彼女は敏感に家計の危機を感じ取っているのだ。それでも文句ひとつ言わず、こうして俺のプライドを傷つけないように提案してくれている。
その健気さが、今の俺には猛毒だった。
「……ごめん」
「え? なんで謝るの?」
「いや、なんでもない。……そうだな、家で祝おう」
「ふふ、じゃあ腕によりをかけないとね」
彼女は弾むような声でそう言うと、キッチンへと戻っていった。
使い古されてくたびれたエプロンの紐が、彼女の細い背中で揺れている。
その小さな背中に向かって、俺は音にならない声で詫び、拳を強く握りしめた。
今はただ、彼女の優しい嘘に乗っかることだけが、俺にできる精一杯の誠意だった。
翌日、仕事の帰りにこの先行きの不安に体と心も支配されたまま、
あてどなく歩き回り、たどり着いたのは自宅から数ブロック離れた建設現場だった。
巨大なクレーンが、重低音を響かせながら鉄骨を吊り上げていく。
大規模なオフィスビルができるらしい。

日に日に高くなっていくその躯体を、俺はフェンス越しにぼんやりと見上げた。
——どうして、こうなったんだろう。
始まりは、純粋な願いだった。
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