
通されたのは、建設現場の敷地内にあるプレハブの事務所だった。
無造作に置かれたパイプ椅子。
スチール机の上には図面とヘルメット、そして吸い殻が山盛りになった灰皿。
部屋全体に、泥と鉄と、男たちの汗が染み込んだような独特の匂いが充満している。
空調の効いたオフィスでパソコンを叩いていた俺には、その「現場」の空気がひどく暴力的で、異世界のものに感じられた。
「——そうか。家、買ったばかりか」
権田は缶コーヒーを俺の前に置くと、自分もパイプ椅子にドカりと腰を下ろした。
向かい合うと、その体の大きさが際立つ。
俺も平均的な身長はあるはずだが、権田の前では子供のように萎縮してしまう。
作業着の上からでも分かる胸板の厚み、丸太のような腕。
この男がその気になれば、俺の首など片手で折れるだろう。
そんな生物としての絶対的な格差が、俺の喉を乾かせた。
「は、はい……。子供ができたらと思って、無理をして。その直後に事業がダメになって……」
俺は誰かに懺悔するかのように、洗いざらいを話していた。
再就職したものの給料が足りないこと。
住宅ローンと事業資金の返済で首が回らないこと。
妻にだけは、辛い思いをさせたくないこと。
権田は黙って聞いていた。
時折、太い指で顎髭を擦りながら、値踏みするような視線を俺に投げかける。
同情しているようにも、呆れているようにも見えた。
「なるほどな。……あんた、真面目なんだな」
一通り聞き終えた権田は、短くそう言った。
「男ってのは見栄を張る生き物だ。奥さんに心配かけたくねえ気持ちは分かるよ」
「……でも、もう限界なんです。来月の返済ができなければ、家を売るしか……」
「売ったところで、二束三文だぞ」
権田は冷たく言い放った。
「新築だろうがなんだろうが、一度人が住めば『中古』だ。ローン残債を消せるほどの値はつかねえ。家を失って、借金だけが残る。最悪のパターンだ」
目の前が真っ暗になった。
分かっていた事実を、他人の口からはっきりと言語化されると、鋭利な刃物で刺されたような痛みが走る。
「……どうすれば、いいんでしょうか」
俺は震える声で尋ねた。
権田はニヤリと笑い、煙草の煙を天井に吐き出した。
「方法がないわけじゃあ、ない」
「え?」
「俺んとこの会社、知ってるか? 最近急激にデカくなっててな。現場が増えて、作業員が足りねえんだ。地方から若い連中をかき集めてるんだが……住ませる場所がなくて困ってる」
権田は身を乗り出し、机の上で両手を組んだ。
「あんたの家、部屋余ってるんだろ?」
その言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。
「それって……下宿、ということですか?」
「『社宅』としての借り上げだ。一階部分をウチの若い衆に使わせてくれれば、会社として家賃を払う。もちろん、あんたの借金がチャラになるくらいの額でな」
心臓が早鐘を打った。
借金が、チャラになる。
家を手放さなくて済む。佳純を路頭に迷わせずに済む。
だが、見ず知らずの男たちを家に招き入れる?
「あの、妻がいるんです。男の人たちが家に入るのは、その……」
「ああ、奥さんがいるのか」
権田の目が、すっと細められた。
その反応に違和感を覚える間もなく、権田は太い指を伸ばした。
「どんな奥さんだ? 写真とかねえの」
「え、あ、はい。待ち受けにしてて……」
言われるがまま、俺はスマートフォンの画面を点灯させて見せた。
一年前、あの家の庭で撮った写真だ。
陽の光を浴びて、佳純がはにかむように微笑んでいる。
風になびく黒髪、華奢な肩、色素の薄い瞳。その清潔で儚げな姿は、この埃っぽい事務所の中で、そこだけ切り取られたように浮いて見えた。
権田の視線が、画面に吸い付いた。
「…………」
沈黙が落ちた。
権田は何も言わなかった。
ただ、じっと見ていた。
その視線は、性的な言葉を投げかけるよりも遥かに重く、粘着質だった。
美術品を鑑定するような、あるいは、手付かずの雪原を見つけた時のような。
底知れない欲望が、奥二重の瞳の奥で揺らめいた気がした。
「……綺麗な人だな」
数秒後、権田が低い声で言った。
褒め言葉のはずなのに、俺の背筋には冷たいものが走った。
「……大人しそうだが、芯は強そうだ。……いい奥さんをもらったな、旦那」
「は、はい……」
権田は視線を画面から俺に戻すと、先ほどよりも少しだけ、声のトーンを落として続けた。
「ちょうどいい。ウチの連中、男所帯で荒んでてな。飯や掃除、身の回りの世話をしてくれる『寮母』がいれば助かるんだが」
「寮母……ですか」
「ああ。奥さんにその役目を頼めねえか? もちろん、給料は弾む」
——家賃収入と、妻の給料。
それがあれば、今の地獄から抜け出せる。
計算機が頭の中で弾かれた。一瞬で、全ての収支がプラスに転じる。
「もちろん、奥さんのプライベートな部屋には立ち入らせねえし、危害を加えるような真似はさせん。俺が責任を持って管理する」
権田の言葉は力強く、頼もしかった。
この男なら、荒くれ者の作業員たちを抑え込んでくれるだろう。
そんな根拠のない信頼が芽生え始めていた。
何より、俺には他に選択肢がなかったのだ。
「……一度、持ち帰って相談させてください」
「いい返事を待ってるぜ。……あの奥さんのためにもな」
権田はニタリと笑い、大きな手で俺の肩をポンと叩いた。
その掌の熱さと重さが、服の上から皮膚に張り付くようだった。
事務所を出ると、外の空気はやけに生ぬるかった。
コメント